趣味の原稿依頼を頂きあまりにも多くて混乱しています。列挙しますと、スキー志賀高原2級、水泳、クレー射撃、弓道4段、ラジコンと本物の飛行機・ヘリの操縦、ゴルフHc.7、それと手品であります。
飛行機操縦の武勇伝として、1979年9月20日パイパーチェロキー機で初の単独飛行をしました。名古屋の大きい滑走路の後ろに全日空のトライスターを待たせて自分が先に離陸した事が今でも忘れられません。離陸後、教官がいない不安と喜びでコンパスも見ず東に進路を取り、見慣れた景色を見ているうちに岡崎上空を飛んでいました。
10分後、三河一色の海で小さい漁船に急降下後挨拶飛行をした後、伊勢湾を横断し我が故郷四日市へ向かいました。小森教官(海上自衛隊出身・対潜哨戒機に乗っていたので、10メートル位の低空で海を飛ぶのが好きな方だった))はいないし、もし今エンジンが止まれば冷たい海に不時着か!?と思っているうちに海岸線を超え、四日市カントリークラブの真上にいました。高圧線があるためキャディー、プレーヤーへの挨拶は500フィートでバンクを振ったあと、3回旋回しました。
5分後三重カントリーではもっと低空飛行(違反=時効)で友達を見つけました。下からも私のニヤニヤした顔が見えた、と後日報告がありました。しばらく鈴鹿山脈の景色を楽しみ、夕焼けの美しい名古屋空港に戻り無事に綺麗な着陸をしました。南エプロンへのタキシング後エンジンを切ろうとしていたら、小森教官が笑いながらも恐そうに声をかけてきました。
「おい伊藤君!普通ファーストソロ(単独飛行)は滑走路周辺か伸びても一宮までだぞ。何処へ行っていたのだ?」教官は15分くらいで帰ると思い、心配もあり外で待っていたらしいが、待つこと75分。後日教官は単独飛行の最長記録だといって誉め、昔はエライヤツがいたと後輩にも語り継がれたそうです。
今は周辺の心配もありもっぱらマジックに凝っています。これは人の出会いに大きく役立っています。フィリピンではセブ市長のオスメニア氏、レイテ国会議員のエドワード・ベロソ氏、多くの得意先、友達ができ、訪問のたびに新ネタを披露します。
国内では、元巨人の中畑氏、山倉氏、俳優の琢磨伸氏とも知り合い(弟子)になりました。