挑戦する製造業のための情報誌「エミダスマガジン」で
弊社社長のことが採り上げられました。
『素顔 日本製造業に賭ける経営者』
《手品師・澄ちゃん》
テーブルのうえにならべたトランプを、澄ちゃんがくるりとひっくり返し、もういちどくるりとひっくり返すと、赤かった裏模様が青に変わった。
澄ちゃんがこんどはグラスにコインを入れた。そうして涼しい顔で、なかのコインをグラスのそこから取り出してみせた。
タネがあるのが手品なわけだから、きっとなにか仕掛けがあるのだろうけど、間近で見ているのにまったくそれがわからない。
澄ちゃんは自分の手もとを食い入るように見つめるひとびとの反応をたのしむかのように、筒状にした千円札を宙に浮かせてみたりした。
金型メーカーの株式会社伊藤製作所代表取締役社長・ 伊藤澄夫の手品暦は40年以上、レパートリーは400種類以上に達する。
「営業、技術どちらの人間かといわれれば、僕は営業畑。とにかく、ひとが好きだし、ひとをたのしませるのが大好きなんです。"面白いオッチャン"と思われたいし、手品もコミュニケーションツールのひとつですよ」
この手品、ビジネス面でも効果は絶大なようだ。大企業のトップのまえで腕を披露することもあるが、技を伝授してくれと頼まれたり、工場進出したフィリピンでは、手品が縁で地元要人ともパイプができた。まさに澄ちゃんマジックである。
《趣味多種多彩》
手品だけではない、スキー、水泳、クレー射撃、弓道、水上スキー、ゴルフと澄ちゃんの趣味は多岐に渡る。
なかでも、根っからの機械好きが嵩じてラジコン飛行機には入れ込んだ。
「50時間、60時間かけてつくった飛行機が空を飛ぶよろこび、それが墜落して一瞬にして壊れるかなしみ、そしてまた、こつこつ改造を重ねるたのしみ。ラジコン飛行機は奥が深いですよ」
とくにラジコンのヘリコプターの操作は難しく、30秒ホバリングさせるまでに半年を要するという。
ついには飛行機もヘリコプターも本物が操縦したくなった。そうなったら、すべからく実行するのが澄ちゃんである。
「空を飛ぶのはいつも特別の経験です。しかし、やはりいちばんの思い出はパイバーチェロキー機ではじめて単独飛行したときのことですね。名古屋空港の広大な滑走路の後ろに全日空のトライスターを待たせて離陸しました。隣にいつもいた教官がいない不安とよろこびで心臓がばくばくでしたよ。10分後、眼下に広がっていた三河一色の海 − 忘れられません」
パイロット澄ちゃんの誕生には、管制塔と交信するうえで英語のやりとりが容易だったことも大きい。
英語とのかかわりが深くなったのは澄ちゃんが四日市商業高校に通っていたことに由来する。
四日市商業への入学は先代社長の正一さん(大正元年12月生、昭和63年3月没)の希望があったからだ。
正一さんには、地元の″名門"である同校への憤れが強くあったのだ。
ところが、大学進学に直面したとき、商業科で英語の授業時間がすくなかった澄ちゃんは、入試を勝ち抜くために独学で普通科高校以上の英語力を身につける必要に迫られた。
澄ちゃんの英語力のそもそもは受験勉強にあったわけだ。
会社が軌道に乗った頃、30歳の澄ちゃんははじめてヨーロッパに渡る。
そこで話した英語がけっこう通じたことも自信を持つきっかけになった。
そうして31歳からの15年間、アメリカ人の宣教師について週にいちど勉強し、英会話にみがきをかけた。
もちろん、澄ちゃんの英語は、会社の海外展開にも大いに役立った。
《魚網と金型》
正一さんが戦災による魚網機械や撚糸機械の復興手業として創業したのが伊藤製作所である。しかし、魚網と金型とは、まったく接点を見出せない業種ではないか。金型メーカーとしての出発には次のような経緯があった。
創業15年目のことだ、大手家電会社の下請けプレス工場を見学して帰ってきた正一さんが「おい澄夫おれはどうしてもあの仕事がしたい」と言い出した。
「すごい金型が動いとった。おれは金型でプレス加工したら、製品は下に落ちるもんと思っとったんや。そやのにカス(スクラップ)が下に落ちて、製品は上で動きながら、最後に右にあった箱に向けて吹き飛んどった。
ほんとにびっくりした。あの金型ならいい商品が安くできるし、お客もよろこぶぞ」
「そんな仕事をするには大金がいるのでは?」と言う澄ちゃんに、
「どうせ裸一貫からはじめたんや。失敗しても元々や」
正一さんが話す"すごい金型"こそが順送り金型である。そうして、正一さんは情報を得るために金型屋さんや機械メーカーに足繁く通いはじめた。
正一さんを動かしたのは、もうひとつ戦時中の鮮烈な記憶があったからだ。
終戦の1年近くまえ、米空軍のB・29が名古屋を空襲した。陸軍が打ち上げた高射砲が当たったのか、戦闘機による被弾なのか"空の要塞"といわれるその爆撃機が1機墜落した。自転車で現場に急行した正一さんは、残骸を見て腰が抜けるほどびっくりした。
翼や計器、あらゆる部品が金型によってつくられていたからだ。そのとき、日本はまちがいなく負けると確信した。手に職のあった正一さんは軍隊の召集を免れ、軍事工場でゼロ式艦上戦闘機の翼部品をつくっていた。ジュラルミンの板をカッターやはさみで切り、木のハンマーで叩いて部品をつくるのと、金型をつかうのとでは生産性に多大な差があることは一目瞭然である。このときの衝撃が正一さんのなかに強く残っていたのだ。
《どん底から》
澄ちゃんが立命館大学の経営学部を卒業する−年まえ、正一さんは工業団地の土地を購入し、金型製作を実行に移した。そして、澄ちゃんに「あの金型をつくってくれ」と言った。
なにからはじめてよいものかまったくわからなかった澄ちゃんは入社と同時に名城大学の工学部機械学科二部の2年生に編入学した。ところが韓国やアメリカの大学とは異なり、日本の大学では金型設計や製作の実際的な教育を行っていない。
「それでも、世界に誇れる金型をつくってるわけですから、日本人のモノづくりのうまさは天性ですよ」と澄ちゃんは笑う。
それはさておき、当時の澄ちゃんは、得意先との打ち合わせや、納品、営業活動に忙殺され、夜間大学のほうは卒業の半年まえに中退することになった。
正一さんからは「3〜4年は利益が出ないだろう。それまで魚網部門が援助する」と言われていたが、その3年目にとうとう立ち行かなくなった。
その頃のことを、澄ちゃんは自著で次のように語っている。
全ての銀行から見放され、いくら努力しても金がショートする状況に陥りました。
どんぶり勘定しかしていなかった先代でしたが、さすがに危機感を持ったのでしょうか、「親子が弁当を持って働きに行かなあかんな。お前らには迷惑かけたな」と言われました。倒産を覚悟しての言葉でした。
(中略)当時二五歳だった私は、「僕のことは気にしないで。若いから何でもできる。タクシーに乗ってでも生きていける。それよりも倒れる最後の一日まで皆とがんばる」「だから社員には最後まで、何食わぬ顔をしていて欲しい」と頼みました。
その時、生まれて初めて父(頑固親父)の目に光るものを見ました。
『モノづくりこそニッポンの砦1中小企業の体験的アジア戦略』(工業調査会刊)
その直後のことだ、政府系金融機関から運よく1千万円の融資を受けることができた。そうして、その金が底をつくまえに、息を吹き返すことができたのである。伊藤製作所の順送り金型を、得意先がじょじょに認めはじめていた。
「その後35年間も順調に金型製作をつづけられていることに、苦楽をともにしてくれた社員や得意先様、取引先様に心より感謝したいものです」
《仕事は趣味の延長》
機械いじりが嵩じてのラジコン製作、飛行横操縦に欠かせない英語、営業のコミュニケーションツールとしての手品 − 澄ちゃんの趣味は仕事に直結している。
「趣味の延長に仕事があるんですよ」
仕事はたのしく、が澄ちゃんの持論だ。それだけに、社員が快く働けるように職場環境の充実をつねに心がけている。
2年まえ、会社の道を挟んで隣に和食処『こがね』(店名は黄金町という町名による)を赤字覚悟でオープンしたのも、その一環からだ。一般客も利用できる飲食店だが、日替わりの昼食を社員には特別料金で提供している。
「社員は一日の真ん中の時間を、職場で働くことに提供してくれています。ですから、その真ん中のさらに真ん中の休憩時間を、すこしでも寛げるひと時にしてもらいたかったんです。とくに製造を担当する社員には、旨いものをたくさん食べる必要があります」
『こがね』は、夜になると会員制の飲み屋さんになる。会員とは、社員とその家族(独身社員は友人の同席も可)。お酒も料理も、もちろん特別料金である。
そんな席で、澄ちゃんは若い社員たちと話すのが好きだ。そして、この若い世代から、次代の伊藤製作所を担う人材があらわれるのを待っている。かつて「おまえがやってみろよ」と言ったあと、ただ黙って見守っていてくれた正一さんの姿が澄ちゃんに重なった。
|